(その2)

山本忠文
幹候:1区隊
 職種:通信科

 
前回は、カンボジアにおけるJMASの不発弾・地雷処理の概要について申し上げました。内容の特性上正確を期す必要があり、やや堅苦しい話に終始致しましたが(その2)以降では私的な経験・体験も含め少しでも興味深い内容を 掻い摘んで説明しようと思います。  
先ず初めに「お前はカンボジアで何をしていたのか? どの様な暮らしぶりだったのか?」という質問に答えてまいります。

   
JMAS 5周年記念 美人中国人研修生と  研修者とともに 

1. お前はカンボジアで何をしていたのか?

 小生の正式な役職名は「JMASカンボジア現地統括代表」という長ったらしい名前でした。 何故統括代表と云うのか?といいますと、カンボジアでは、不発弾処理現場が4個州(サイト)と地雷処理現場が1個州(当初1個サイト、途中から2個サイト)と複数の現場を抱え、現地代表はこれらを統括して管理・運営に任じていた故です。

 管理・運営業務としては、不発弾、地雷処理は外務省の無償資金援助の上では別事業で申請・認定されておりますので別々に管理します。夫々の事業では、大きな作業として予算要求資料の作成(CMACとの調整を含む)、事業の中間報告書、最終報告書の作成・提出(現地大使館)などがあり、これらをパラレルに処理しますので結構追いまくられることもありました。 
自衛隊の様に幕僚組織がしっかりしておりませんので、殆ど自分で作業をしました。勿論、それなりのスタッフは配置されております。各事業に現地人のプロジェクトマネージャと同補佐、日本人経理主任と現地人同補佐が主な戦力です。彼らに上記の様な書類(案)の作成を期待するのは無理ですので、必要な資料を収集・作成させるだけでした。日本人経理主任には、別冊の会計報告部分をほぼ全部任さられました。その間、新たに機械力による地雷処理・地域支援事業が加わり、その予算が外務省支援を受ける部分、企業の支援を受ける部分、自己資金による部分から成り立っているため複雑で、事業の計画、管理、CMACとの調整、大使館への説明等に苦慮いたしました。しかし、一度走り出せば後はその繰り返しですので然程でもありません。

 その他、種々雑多な業務がありますが、その代表的なものは、毎月1度の主任者会議(兼俸給支給)、見学者・視察者の対応(ブリーフィング、現地見学の案内等)、概ね月一の現地視察・指導、大使館からの報告書関連の質問対応、CMACとの各種調整会議等がありました。
見学者は、大体大学生が多く夏休み等を利用して「国際貢献活動」について学ぼうという極めて真面目な目的を持っております。ついでにアンコールワットやプノンペン内外の観光もして帰りますが、今どきの学生は、行動力があり捨てたものではありません。

 有名人では、作家の曽野綾子氏が某元総理夫人(当時)とサンケイの女性記者と共に対人地雷の現場に約1週間宿泊し、現場をつぶさに研修されました。宿泊場所は、ホテルではなく現地の高床式の借り上げ宿舎で隊員と共に過ごしました。当時曽野氏は足を骨折して未だ本復していない様子でしたが、階段を自力で上り下りされるとともに、入浴も隊員と同じように体験されました。現地では、温かいシャワー等がなく勿論バスタブも御座いません。大きな水ダメに溜まった水を洗面器で頭からかぶるやり方です。トイレも同じ場所にあり水を使って自分の手で後始末をします。その行動力には全く頭が下がる思いでした。
その他日本財団理事長の笹川陽平氏が不発弾現場の視察をされ、小生が直接案内いたしました。日本財団は、JMASの活動にも多大な支援を頂き、特にラオスの事務所の借り上げ経費等は全面的にお世話になっております。

 珍しいことでは、当時外務省で「国際貢献に活動するアジア人の人材育成事業」が試行的に実施され、その受け皿としてJMASカンボジアに白羽の矢が立ちました。この事業全般は、広島大学が受注し国内でのレクチャー、実習部分を担当しましたが、現地研修については別の組織にアウトソーシングしました。これにJMASが手を挙げ、見事に受注しましたが、何しろ誰もが初めての事業であり何をどうして良いのかはっきりしないまま走り出しました。JMAS本部ではカンボジアが実績、歴史ともに勝り、研修には最適であると判断し打診(ほぼ強姦)を受けましたが断る訳にもゆかず引き受けることになりました。

 我々のところに研修に来たのは、中国人女性(30代前半の公的機関の研究員、既婚の子持ち、かなり美人です、上の写真)と独身のラオス人男性(政府の若手官僚)の2名でした。受け入れる前に宿泊所(ホテル、アパート)の手配、研修プログラムの作成、事務所における作業所(事務室)の確保等の処置が必要で本部と調整したところ、何しろ初体験事業で誰もが明確に回答できません。特に宿舎等予算を伴う処置について、予算額がはっきりせず、最終的には「えいやー」とJMASカンボジアの持ち出しで処置すべく決断し何とか凌いだのが思い出されます。当時の日本人経理主任には大変な苦労を掛けましたが、二人とも熱心に研修をし、立派な成果報告書をまとめてくれ、結果的には引き受けて良かったと思っております。研修の当初にオリエンテーションの一環としてカンボジア語の教育を実施しましたが、その時現地人スタッフが、「クニョム ニャム ニョアム」という舌をかみそうな言葉を教えて全員で大笑いしていたのを思い出しました。因みにその意味は 「クニョム(私は) ニャム(食べる、飲む) ニョアム(スープ)」ということですが、未だに忘れません。

   
JMASカンボジア事務所  マンゴーの木 

2. どの様な暮らしぶりだったのか?

 カンボジアに赴任したのは、三菱電機を退社して2週間後の2009年7月14日でした。 
赴任当初は、アパートの準備がなく、事務所も狭く宿泊できなかったので2か月間ホテル住まいを続けました。カンボジアでもプノンペン中心部の一流ホテルは、一泊150〜200ドルと高く小生の手当では殆どがホテル代に消えてしまいますので、事務所に比較的近い2流のホテルをスタッフが見つけておいてくれていました。 最初は、朝食込みで35ドル/日でしたが、2W後に長期滞在で交渉した結果、1ヶ月300ドルと大幅にディスカウトしてくれました。

 事務所が老朽化しており、且つ手狭で赴任前に本部の方からよい事務所を探して下さいと依頼されておりましたので、予算はいくら位までOKかと聞いたところ700〜800ドル/月程度で考えて下さいとのことでした。因みに旧事務所の家賃は350ドルでした。
スタッフには1、000ドル位でなるべく広く、新しい家を探すよう指示しました。予算が安いとなかなか所望の家が見つからないであろうということと、広い家なら事務所に自分が宿泊し(ラオスでは、既にそのようになっていました。)家賃として200ドル払えば結果的には800ドルで収めたことになるのではないかと考えた故です。 いろいろな物件候補を探してくれましたが800ドルでは期待した家が見つからず1、000ドルの物件で手を打つことにし、ダメ元と考え800ドルで最後の交渉をさせたところ瓢箪から駒で、うまく行き予期以上の成果でした。

 カンボジアの家(特にプノンペン)は、フランスのインドシナ3国統治時代の名残でまともな家は日本の家に比べて随分と立派です。地方のものは所謂高床式の狭い家ですが、我々が入居した家は、1階には、ベッドルーム(バストイレ付)が3つと応接室、物置、台所、トイレ、シャワールームが各一つあり、2階には、ベッドルームが4つ、オープンルーム(会議室)、トイレ、シャワールームが各1とリビング、ベランダがついております。また、庭の広さも車が6〜7台入り、その他マンゴーの木が3本とジャックフルーツの木が1本植わっており、日本で借りれば田舎でも50万円/月は下らないと豪邸です。持ち主は、政府の高級官僚で別にもう1件自宅を持っているとのことで、貧富の差をまざまざと感じさせられました。1階のベッドルームはベッドルーム2つをぶち抜いて事務所に改装し、もう一つのベッドルームも予備の事務室として使用しました。2階のベッドルームは、一つは自分が使用し残りは予備として確保し、TAが来た時など一時的な宿泊所として使用していました。
 
 近年、カンボジアの治安は随分と良くなっておりますが、内戦時代の影響を受け大きな家は夜間鉄製のフェンスを閉め、鍵をかけて休みます。それでも、小生勤務間に隣の家に泥棒が入ったのを後で知りました。事務所は、安全上ガードマンを2名雇い24H体制で警戒をしていましたが、ある日の夜中の起きてみると2人とも大鼾で爆睡しており、真夜中でも必ず一人は起きているよう指導しましたがその成果は定かではありません。その後、警備会社と契約し二人の警備員が24時間体制でガードしてくれましたので、警備員二人の給料とほぼ変わらない経費で安全性は格段に向上しました。

 起床は、05:30〜06:00で顔を洗った後15分程度の距離にある「BAYON」というベーカリーに出かけます。バイヨンとは、アンコール遺跡群の一つであるバイヨン寺院から名前を採ったそうですが、ここでは焼き立てアツアツのフランスパンが買えます。コッペパンをやや大きくした程度のフランスパンが18〜20円で売っており、日本の1/10程度でしょうか。往復で約30分と朝の散歩には最適で、適度な運動で食欲も程よく刺激され、毎朝の定番コースでした。

 朝食は、このパンにバターを塗り、コーヒーとサラダ、ゆで卵 (目玉焼きの場合も)を自分で準備して同宿のスタッフ(殆ど1〜2名が同宿でした)とゆっくりと摂ります。 その頃ハウスキーパーの女性(20代前半、独身、美人?) がバイクで出勤してきます。その後朝シャワーを浴びて8時前に1階の事務所に下りてゆきます。

 昼食は、ドライバーがおかずの買い出しに行き、ハウスキーパーが炊いたご飯を全員で会食です。おかずは、主に肉、魚、野菜等の煮物、焼き物、スープ類でこれを大皿に盛って皆で適当に取分けて食べます。 デザートは、庭で採れたマンゴーやジャックフルーツ、バナナ等がほぼ毎日付いていたように思います。これで予算は1食1ドル程度で、日本では考えられない安さでした。

 夕方の5時半頃になるとハウスキーパーが、夕食の準備ができたことを知らせに来ます。同宿者と共にこぢんまりと会食し、一休憩の後ウォーキングに出かけるのがほぼ毎日の日課でした。 ウォーキングのコースは何時も大体同じで30〜40分の距離でしたが、当時カンボジアではウォーキングをする人は珍しい故でしょうか何度か途中で飲み屋のネーちゃん達に手を振られたこともありました。

 その後は、平日は部屋でビールを飲みながらTVを見たり、インターネットを見たりして過ごし、業務多忙時は事務室で引き続き仕事をすることもありましたがそれ程頻繁にはなかったと記憶しています。 週末、休日は、昼間はプノンペンの中心街に出かけ見物、買い物、食事等を楽しみ、夜になると現地人スタッフやドライバーと共に飲みに行くのが楽しみでした。カンボジアの飲み屋については、改めて詳しく紹介いたしますので楽しみにしていて下さい。

 週末には、ハウスキーパーが来てくれませんので食事は自分で摂らなければなりません。プノンペン中心街のレストランでは、英語のメニューが準備されており、日本食も楽しめますが事務所の近傍ではまともなレストランは無く所謂大衆食堂の様なものが幾つかあり、そこで食事をすることも稀ではありません。その際に困ったのが、メニューがクメール(カンボジア)語のみで小生には理解できず注文が出来ないことでした。最初は、カンボジア人スタッフと一緒に行き注文して貰い、店でメニュウを貸して貰ってくれるよう頼みました。これを翌日に英語に翻訳して貰いました。その後は一人で入っても、メニューの該当場所を指でさして「ソーム」(please)と云えばオーダー出来るようになりました。現地の人しかゆかない食堂に一人で入るのは、中々勇気が要りましたが「裏通りを知らないで、カンボジアを理解することはできない。」と蛮勇を奮ってみました。「案ずるより産むが易し」で、段々と顔馴染みになり何時も笑顔で迎えられるようになりオーダーも何とかクメール語で通じるようになりました。(限られたメニュウのみですが)

 洗濯や掃除は、ハウスキーパーがやってくれますので大変助かりました。驚いたことは、下着にまできっちりとアイロンをかけてくれることで、なんだか申し訳ない思いでしたがこれがカンボジアのハウスキーパーの常識とのことでこれを甘受しました。選択は勿論手洗いで、日本の様に洗濯板を使いません。

 TV番組は、ケーブル配信で日本以上にチャンネル数が多く、カンボジアの番組は勿論のこと、インドの映画、韓流ドラマ、フランス映画等も見られます。日本の番組は、限られたNHKのニュースや相撲放送を楽しむことが出来ましたが、日本の状況は殆どインターネットで掌握しておりました。
 家族との連絡は、携帯電話及びSkypeによる画像付無料通話を利用しました。携帯による日本との通信は、会社によって異なりますが驚くほど安く、1ドルで3分ほど話せ日本の国内通話料以下です。

(次回につづく)

 
     カンボジア勤務(JMAS)を振り返って!(その1)へリンク

     カンボジアからの便りへリンク

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